中国における裸体画表現・美術モデル年表
| 年代 | 項目 |
| 古代から19世紀まで | 古くから人のかたちを表現する美術作品は存在していたものの、裸体を主題とする美術作品は制作されず鑑賞する伝統もなかった。裸体を主題とする美術の伝統をもたなかったのは、日本を含む東アジア諸国と同様である。 中国では、日常生活において裸体を人目にさらす習慣はなく、むしろ肌を顕すことは忌まわしいこととされた。 |
| 1912年 | 11月 劉海粟(1896〜1994)、上海に図画美術院(のちの上海美術専科学校)を設立、翌年開校。西洋画科は1,2学年は人体模型を、3学年で人体モデルを描くカリキュラム。当時モデルを雇うことは困難であった。 |
| 1914年 | 浙江省立第一師範学校で、男性裸体モデルを使用。 (中国裸体モデル使用の始まりとされている。)画像1, 画像2(1935年) |
| 1915年 | 3月 上海美術専科学校、15,6歳の少年を銀5,6元(かなり高額の報酬であったという)の報酬で雇い、着衣のモデルとして使った。中国では顔や姿を描かれると精神を害し、運気を減ずると考えられていて、成人のモデルを雇うのは困難であった。 |
| 1915年暮れ〜1916年 | 上海美術専科学校、壮年の労働者を雇い、上半身裸体のモデルとして使った。(上半身裸体に慣れた労働者であったが、全裸となることは拒否した。) |
| 1917年 | 4月 上海美術専科学校、多額の報酬を呈示して裸体モデルを募集。男子裸体モデルを使用。 (当初多くの応募があったものの、いざ裸体になるという場面で逃げ出す者多数。拒否した場合、違約金を払わすという契約でこの運びになった。) 7月 暑期成績展覧会でその作品を展示。(第1の裸体画事件) |
| 1919年 | 8月 第2の裸体画事件 |
| 1920年 | 7月 上海美術専科学校、初めて中国人女性モデルを雇うが、4日目から姿を見せなくなる。(家族がやめさせたことが原因で、紹介者は厳しく非難され、女性モデルは中止になった。) 上海で発足した晨光美術会、白系ロシア人女性をモデルに雇う。 (個人でモデルを雇うのは困難で、王悦之、陳抱一らは夫人をモデルにした。) |
| 1922年 | 2月 上海美術専科学校、二人の20歳前後の女性モデルを雇い、継続して使用。画像3 この頃から他の美術学校でも男女のモデルを雇うようになった。 |
| 1924年 | 4件の裸体画問題が起こる。 |
| 1926年 | 上海県知事、上海美術専科学校の人体実習を禁じる。 江蘇省督軍、人体模型・人体モデルの使用、旗袍(チャイナドレス)の着用を禁じる。 魯迅「中国人の不真面目を証明しようとするなら、それは真面目なつもりで男女共学を禁止したり、モデルを禁止したりすることにあらわれている。」(『馬上支日記』)と述べる。 劉海粟は、当局に対し人体モデルの必要性について反論する。 以後、大きな裸体画論争は起こらなかったものの、展覧会の裸体画に「淫画」という言葉を投げるような無理解は存在した。 |
| 1965年 | 7月18日 モデルの使用を禁じようとする提案に対し、毛沢東は、「男女、老少の裸体モデルは絵画と彫刻に必須の基本的なものである。用いなければならない。封建思想で禁止するのはよろしくない。万一、悪い影響が生じても心配することはない。藝術、科学のためには少しばかりの犠牲を惜しんではならない。」と述べた。 |
| 文化大革命期 | 四人組の江青は、裸体画をブルジョア階級アカデミズムの典型として非難し、人体モデルの使用を禁止し、美術学校の石膏人体模型さえ破壊させた。 |
| 1978年 | 開放政策により再び裸体画が制作され、展示されるようになったが、人々の意識は中華民国時代とあまり変わるものではなかった。 現状については「四人の四十女」が参考になる。 |
参考文献『人の〈かたち〉人の〈からだ〉』(平凡社・東京国立文化財研究所編、1994年3月31日刊、3600円)
20040627 UP