美術モデル歴史年表
参考資料・・・「芸術新潮」1985年9月号、「一枚の繪」1992年8月号、「あるモデルの自画像」・・小林範子著、「裸体画の黎明」・・勅使河原純著、「お葉というモデルがいた」・・金森敦子著、「素描する人々−或る日の洋畫研究所」・・・目黒区美術館(2006年10月14日〜12月3日)の展示資料から
(文中敬称略)
重要人物の初出については太字とした。
| 年代 | 出来事 |
| 明治以前 | 肉体労働者は年間を通じて半裸、母親は人前で授乳、大勢で一緒の湯に入る習慣など、裸体は日常的にいくらでも目にする機会があったにもかかわらず、それを美とする感性は日本人には育っていなかった。
堂々と肉体をさらし、それを凝視することはタブーとされていた。 |
| 1844年 | 宮崎菊、江戸谷中の餅屋の娘として生まれる。 |
| 1871年頃 | 宮崎菊、渡来してきたフランス人画家の裸体モデルを1ヶ月間つとめる。(本邦初の美術モデル) (宮崎菊が美術モデルをつとめたのは、この一度きりであった。) |
| 1870年代 (明治10年代) |
西洋画を目指しヨーロッパに留学した画家たちは、人物画には裸体デッサンが不可欠であることを知るが、日本に帰ってから、裸体モデルを求めようにもきわめて困難を極め、ほとんど着衣のモデルを使用。 プロのモデルは一人もおらず、多くの画家たちは妻や愛人をモデルとした。 |
| 1876年 | 工部美術学校において等身大モデル人形や「生人モデル」(コスチューム)による美術教育が行われる。(工部美術学校は1883年廃止) |
| 1877年 | 「ラグーザお玉」(清原玉)、ヴィンチェンツィオ・ラグーザの彫刻モデルをセミヌードでつとめる。 |
| 1891年 | 山本芳翠の「生巧館画塾」で裸体モデルを使う。(記録写真現存) |
| 1896年 | 東京美術学校、西洋画科新設。 (洋画黎明期の異色美術モデル参照) 学生たちは当番制で街頭にてモデルをスカウト。 初期のモデルは、多くが男性労働者(1日25銭の賃金。) 宮崎菊、月6円で美術学校のモデル斡旋を引き受ける。(専ら、街頭でのスカウト) モデル料、1日50銭。 後に宮崎菊、「宮崎モデル紹介所」設立。 所在地は下谷区谷中坂町(現台東区谷中四丁目) 顧客は東京美術学校、白馬会、太平洋画会、本郷洋画研究所、川端研究所、女子美術学校、黒田清輝、藤島武二、岡田三郎助、小林萬吾、長原孝太郎等。 |
| 1898年 | 当時のモデル料(1日)、着衣小児6銭、6,7歳児20銭、15,6歳30銭、20歳女40銭、男60銭。
裸体は男1円、女80銭、老人70銭。 明治期の裸体画問題 |
| 1903年 | 6月2日、浅井忠によって「聖護院洋画研究所」(京都)設立。(モデルを使ってデッサンできる関西唯一の画塾であった。) 同所でのエピソード |
| 1904年 | 2月、「聖護院洋画研究所」にて、着衣モデル使用開始。(同所におけるデッサンの記録から) 12月、同所で男性ヌードモデル使用。(同上) |
| 1905年 | 2月、同所で女性ヌードモデル使用。(同上) |
| 1906年 | 3月2日、「関西美術院」設立。京都日出新聞記事 |
| 大正時代 | 「宮崎モデル紹介所」、女性118名,男性3名のモデル在籍。(年齢は15歳から23歳くらいで、多くは貧民の子女。)
モデル料、裸体半日45銭、コスチューム半日25銭。(紹介手数料1人1週間10銭) このころモデル市、「宮崎モデル紹介所」で開かれる。 日曜午前は画塾や一般作家のモデル選考会、月曜は美術学校のモデル。 (1941,2年頃まで続く。) 晩年の宮崎菊は、モデルの教育にも乗り出し、日本の美術界に質の良いモデルを供給することに没頭し、モデル業が職業として市民権を得ることに情熱を燃やす。 大正期の美術モデル事情 |
| 1915年 | 7月3日 宮崎菊没。(71歳) 息子の宮崎幾太郎が後を継ぐ。 幾太郎人望厚く、紹介所も繁盛を続けた 当時のモデル事情は浅尾丁策著「谷中人物叢書・金四郎三代記」に詳しい。 |
| 昭和初期 | モデル料、裸体半日1円20銭、コスチューム1円、子供80銭。
規定外に完成報酬、入選・受賞報酬があったといわれる。 モデル登録者数、8,9月に増加。(100名程度) |
| 1941年 | 宮崎幾太郎没。 内縁の妻、小宮吉能(よしの)業務を継続するが、経営行き詰まる。 まもなく、「宮崎モデル紹介所」、消滅。 |
| 1947年 | 浅尾丁策の画材店でモデルの斡旋が始まる。 |
| 1949年 | 浅尾丁策、「プール・ヴー・モデル紹介所」設立。(命名は木内 克) 他のモデル斡旋業者 牛込「仏蘭西ナヲイ」(直井是子) 田園調布「南郊モデル紹介所」(小林源太郎) 「目白モデル紹介所」(北村久) |
| 1953年 | モデル料、3時間250円、8%手数料。モデル登録人数350人。 モデルの多くは、17歳から20歳までの独身女性のアルバイト。 |
| 1954年 | 「プール・ヴー」で日曜日ごとに「モデル市」。150人ものモデルが、仕事を求めて集まる。 これは1965年頃まで続く。 |
| 1955年 | モデル料、1単位300〜500円。モデル数200人、実働80人。 |
| 1963年 | 北村 久(1915〜1988)、「目白モデル紹介所」から独立し、「北村美術モデル紹介所」を設立。 |
| 1966年 | モデル料、1単位900円。専業:アルバイトの比率、7:3。 |
| 1968年 | モデル料、1単位1200〜1300円。 |
| 1980年代 | 専業:アルバイトの比率、半々。 |
| 1990年代 | モデル登録数、北村、プールヴー共に200人。 |
| 2000年 | プールヴー美術モデル紹介所創立者、浅尾丁策永眠(92歳)。 |