美術モデルと巨匠(西洋)

ルーベンスとエレーヌ・フールマン

1630年、ルーベンスはアントワープに戻り、自分の画風に合った「掛け布の折り重なるようなみごとな肉のひだを見せる女体とか大波うねる尻の形」と形容されるような太った女性と出会った。
その女性がエレーヌ。
16歳の彼女ではあったが、すでに二重顎、137センチのヒップという育ちぶりでルーベンスは大変気に入ったという。彼女と再婚したルーベンスは、「レウキッポスの娘たちの略奪」「サビヌ人の女たちの陵辱」「オレテュイアをさらって天駆けるボレアス」等々、その後のルーベンスの8000点もの油絵の油絵のモデルをつとめた。
これらの絵画のポーズはいずれも、宙に舞っているような激しいものであったが、エレーヌはルーベンスの作品の大量制作に携わった助手、徒弟などの大集団を前にして、慌てたりひるんだりすることなく平然と、「激しい動きの中の華麗な裸婦」というルーベンスのビジョン通り演じていた。時には空中高く投げあげられ、浮遊状態のポーズをもいやな顔もせずやり通していた。
再婚10年目、エレーヌ26歳の時ルーベンスは62歳で永眠した。
参考文献「巨匠のモデル」 ミュリエル・シーガル著 白水社刊

WebMuseum:Rubens・・・・・http://metalab.unc.edu/wm/paint/auth/rubens/


ロダンとカミーユ・クローデル

ロダンは自らも彫刻をするカミーユの美貌と彫刻家としての才能に惹かれ、最初は弟子、そして助手として彼女を使ったが、後に愛人でモデルとなった。
当初ロダンは顔のモデルとして彼女を使ったが後には裸体も扱うようになった。モデルとして使ったものは「カミーユ・クローデル」「物思い」「別れ」「回復期の女」などがあった。ロダンにとってカミーユがモデルとして必須の存在であったことがわかる。カミーユも何点かのロダンの胸像を制作している。こちらもロダンの核心に迫ったものである。これらの像を見比べると彼らの結びつきの強さを感じることができる。
ロダンとカミーユの関係は9年間続き、愛人として、時には助手として、時にはモデルとしてロダンに刺激を与え続けた。後に彼らは破局を向かえるのであるが、それが痛手となった彼女は精神に異常を来し長い後半生を精神病院で過ごし、1943年79歳で没した。
参考文献 芸術新潮1985年9月号「特集・画家とモデル」


エゴン・シーレと愛人ウォリー

ウォリー・ノイツィールは1911年から1915年シーレがエディトと結婚するまでシーレのモデルをつとめた。画家としてのシーレを育てたのはこのウォリーであった。彼女はシーレのモデルをするときには、ただ表面的なポーズでなく、むき出しの自己をさらし、シーレの鏡となるように自らの感情をとぎすませた。(シーレはNUDEでなくNAKEDを描いた。)そこに現れたのが後に妻となったエディトである。シーレはウォリーとエディトの間をさまよう。その関係や情動を絵にしたのが「からみあって横たわる二人の女」である。シーレと別れたウォリーは2年後に23歳で病没した。
参考文献 芸術新潮1985年9月号「特集・画家とモデル」

美術モデル講究

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